Marie In The Mirror
Written & Directed by Kohei Matsumura
Starring : Makiko Sukikara, Takeshi Asada, Kohei Matsumura & Mayu Koto
Directed of photography & Photography : Tomomi Takano
Musique : Murakami Yuki & Kawara Ryoko
Assistant : Yuri Ikeguchi
2008 - 2010
NTSC 4:3 Standard
Color, Stereo
26min.
Printed in Japan
© Kohei Matsumura Pictures
SYNOPSIS
A woman falls in love with two men who also love her. “Marie In The Mirror” is the story about Marie and two men loved by her reflected by the mirror of Marie's mind. Marie works as a translator. She loves two men at the same time. Their names are Akira and Kenji. She feels the similarity between her lovers and E.A.Poe's “ William Wilson ” that she works at translating now. She has spent with Akira on every Sunday and with Kenji on every Sunday. The time like this her weekend wanders to the time of eternal triangle.
映画に於ける実像と鏡像、あるいは虚像の
映画“マリーの鏡”は「男女の三角関係」に主題を置いている。 主人公マリーは二人の男を愛しているが、彼らによって人生に変化がもたらされることはなく、繰り返す毎日を送っている。 彼女は翻訳の仕事をしている。彼女は独立した女性であり、公私ともに極めて現状に満足している。 だが、細胞が常に変化し続ける生理現象と同じに、無意識は無意識に変化を求めている。 それは言うなれば、入り口をくぐった覚えも無い、出口を求めているのでもない、迷路に迷い込んでしまった状態である。 マリーはいま自分が迷路にいることに無自覚である。 このようなマリーの健康的な錯乱は、モンタージュの繋ぎ違いを引き起こす。 例えば、マリーは男A・彰と話しているつもりであるが、ショットが切り返されると男A・彰は男B・研二に入れ代っている。 否、入れ代るという表現は間違っている。 カットをマリーの主観に寄り添わせれば、これは至極当たり前のこととなる。 彼女にとって二人の男は等価でありカットが変わる毎に現前する男は、 彼女のぼんやりとした思い出や夢の中での出来事のように曖昧に決定されている。 “マリーの鏡”は切り返しショットを脱臼させ ストーリーに支配されてしまいがちなモンタージュを裏切っていくことを一つのメソッドとしている。 恋に落ちた相手を見つめることは鏡の中の自分を見つめることに似ている。 マリーは男(たち)を見つめる時、彼(ら)という実像に鏡像である彼女自身が思い描いた別の男という虚像を重ねている。 それを可能にしているのは、彼女が別々の男と付き合いながらも、日々同じ行動を繰り返して生活しているからである。 恋人と二人きりで過ごす時間は、あたかも三人で話しているような錯覚となって性急にカットに滑り込んでくる。 三人であることは、モンタージュによる現前性をより効果的にする。 ここでの現前性とは言い換えると、「思い出や記憶が生起する瞬間」というニュアンスに近いものである。 W.ベンヤミンの「思い出は順序立てることは出来ない」という言葉のように、 映画“マリーの鏡”は至る処で突飛な変化が起り軽快に次の主題に乗り換えていく幾つかのタブローにより構成されている。 さらにそれは既視感を伴ったカットの連続体となって夢オチの技法を越えたところで唐突な終わりを迎える。